昭和51年3月1日 月次祭における教話
信心をして、おかげを頂くという事は、んー、これは信心をしなければ分からない。信心を頂かなければ、頂けないというおかげであります。えー、病気をして良い薬に、または良いお医者さんに巡り会って、全快のおかげを頂いたり。まあ、色んな問題が起こったのを〇〇さんに頼んで、解決してもらったとか。というようなおかげと同じではいけない。神様にも、まるきり病気治しや災難避けの神様のように思うておる事がおかげのように思うておる事は、間違いです。
ね、なら、やはりおかげを受けられん事はないです。おかげを受けられますから、皆お参りをしておる訳ですけれども。信心しておかげを受けてくれよと言われるおかげというのは、私どもがいつも幸福に浸らせて頂けておるというおかげ。いつも心の中に安らぎがある、安心がある。ね、喜びが絶えない。そういう生活を求めての信心。それを、言葉を変えると生神金光大神のいわばお心、お境地を目指して信心を進めさせて頂く。
しかも、それはあの世、この世を通して限りなく進めて行くという、その手がかりを、私どもが生けておる間に、一つ本気で頂いておこうと言うのが信心です。それが、天地の親神様が金光大神に願われておるところの、おかげ。氏子信心しておかげを受けてくれよと。どうぞ商売が繁昌致しますようにとか、不健康なものが健康になりますようにという、これはもう切なる願いですから。ね、願わせて頂かなければなりませんけれども、それだけが信心だと思うたら間違いです。
ね、だからそういう願わなければ切実な事柄とかも、その問題、例えば難儀というものを通して、私どもが一段一段、有り難い境地、安心の境地。いわゆる生神金光大神の境地に進ませて頂くというところに、信心の喜びと楽しみが頂けるのです。今日は、午後の四時の御祈念に合わせて、むつやの田代さんの先代です。の、帰幽日に当たっておりますので、神様に御挨拶をしてくれという事でございました。まあ、いつもの事ながら有り難いと思うんですけれど。
今日は、もう朝からお参りが、もう広前がいっぱい賑わっておりましたから。それで、なかなか良う、立てませんから、もう四時半、もう三十分も、その上も遅くなったでしょう。そうしておるところに、まあ、かけつけるようにして、今度(山辺?)に縁についた田代さんの娘さんが、えー、お参りをして行きました。で、ちょうどおかげ頂いたね。やっぱり御霊様の働きを頂いとったと言うて、まあお祭りを仕え終わらせて頂いたんですけれども。
御霊様の事をお願いさせて頂いておりましたら、その、今まで私はあんな赤の色って見た事がない、燃えるような赤と言うても、もう結局この世の物とは思われない色ですよね。赤の色の、もうそれは何とも言えん、真っ赤な燃えるような、その赤の色のいわゆる大きな傘です。本当に私はそれを頂いてから有り難いと思いました。生前、亡くなられるまでここの総代を、婦人総代を務めておられました。教会の為にも大変お役に立たれた方でございますが。えー、もちろん傘という事は安心という事であります。
ね、この方の道は傘一本で開ける道だと。と言うのは、傘一本ありゃ開けるという意味じゃありません。傘というのは、傘を持っておればいつでも安心だと言うのです。少し雲った時などに傘を持たないでおると、さあ、いつでどこで降られるやら、濡れるやら、心配です。ところが、いつも傘を携帯致しておりますと、それが、ね、どこ、いつどこで降っても濡れんで済むと思うから、慌てんでも済む、不安もないと言うのです。
ならそれが、晴雨(けんよう?)という事でもなれば、さおさら有り難い事です。ね、暑い時にはこれって、日傘に。降れば、いわゆる降る照るの事に役に立つというのが、傘です。ね、だから傘のお知らせというのは、安心という事です。ね。ところが、その真っ赤というのがね、言うならば御霊ながらに、もう日々信心修行を怠らずに、いわゆる、この世でその、言うなら手がかりを頂いておりましたから、御霊の世界に入っても一生懸命、安心の御霊、喜びの御霊を目指しておかげを頂いておる。
私は、安心の御霊とか、喜びの御霊という事は、御霊だけのものじゃないです。この世でも、言うならば安心の氏子、喜びの氏子でなからなければいけんのです。それを目指さなければいけんのです。ね。たいてい信心させてもろうて、おかげを頂いて。本当に信心を頂いておるから、いつも安心だと言うておっても、事少し雲行きが悪くなって参りますと、心に不安が生じて来る。ね、心配になって来る。取り越し苦労になって来る。それが眠れないというような事が、病気になったり、ノイローゼになったりする元になるのです。
ね、ですから私どもは、ことごとくに、事に当たる度に自分の信心を確かめて。(より?)中へ信心に進ませて頂かなければならない。ただ、もう目先のおかげだけに終始しておる信心なんて、もう大よそ信心の、まあ一番程度の低い所だと私は思う。ね。その事を通して、自分の信心の、いわゆる安心の御霊、喜びの御霊と、これが最高の御霊さんであるようにです。安心の、いわば氏子、喜びの氏子としてのおかげの頂けれる道を、ひとつ進ませて頂かなければならない。
一生懸命、信心修行が出けて、日々、有り難い、勿体無い。こういう間違いのない神様を頂いておっての事であるから、いつ、どのような事があっても、驚かんで済むという確信がだんだん強くなって来る。竹や木は折れる、ね、いや、竹や金の杖は曲がったり折れたりするけれども、神を杖につけば楽じゃと仰る。本当にそういう間違いのないという神様を頂けておって、初めて安心のおかげが頂かれるんです。神を杖につけば楽と仰る。楽なんです。どういう時であっても、驚かんで済むんです。
ね、神様を杖についておるようであっても、木や竹をついておるような感じですから、それが折れたり、曲がったりすると、もう不安になって来るという事です。ね。今日、ある方が、もう、ある教会で、どこの教会に何年、どこの教会に何年。ずっと、あちらこちらの教会を回られて、ずいぶん信心のけいこをして。若い時には青年会、青年会の会長までされたという方が、今日は御夫婦で参って見えられた。ね。
そして、若い時からの、もう様々な、本当におかげの頂ける、頂ける、頂けないはずだったと、自分が様々なお粗末御無礼の数々を、もう今日は初めて、もう三十年ぐらい前から、椛目の時代から、とにかくあちらに一偏お参りしなさい、お参りしなさいと言われておったけれども、家内は何回かおかげ頂いたけれども、私は今日が初めて。今日は何とはなしに、何か、こう急き立てるような思いでお参りしたいと言うので、お母さんに連れられて参って見えられた。
目が見れられないのです。78歳と言うけれども、まだ若々しいです。旅館経営をしておられると言うのです。ね。そして、色々と高徳の先生のお話を聞いたり。けれども、それとは、また反対に、信心しよる者がこういう事ではいけない事が分かりながら、こういう御無礼も、こういうお粗末も、それこそ今日は懺悔に来たと言わんばかりの懺悔をなさって、ここでお取次ぎを願われました。だから、私の心の中には、喜びが湧かんのだと言うのです。信心を頂いて、心の中に喜びを頂き続けるという事は、同じ喜びを、ずうっと持ち続けるという事じゃないです。
私は、今日は改めてそれを感じました。ね、始めに、私の喜びと言うて頂いて、私の部屋の向こうに山茶花が、あの、もうずいぶん長い間咲きます。どれかが咲いてるです。上に咲いたり、下に咲いたり。また、横に咲いたり。というようにです、いつも何処にかその花が咲いておれば良いのです。ところが、この氏子はね、そういうおかげを頂きながら、そのおかげのつぼみを粗末にしたからじゃというお知らせを頂きました。ね、喜びの、言うなら花が咲く手前の固いつぼみです。
その、つぼみを大事にして行けば良いのだけれども、そのつぼみを粗末にしたからじゃと頂きました。ね。なら、そのつぼみという事は、どういう事であろうか。ね。喜びの花と、皆さんが心の中に、本当に信心をさせて頂く者の喜びをしみじみ感じられる時には、まあ、喜びの花が咲いておるのですけれども。それが散ってしまった後は寂しい。もう、次にはつぼみがあり、中開きがあり。ね、七部咲きがあり、満開の花があるという風に、いつもそういう花が私どもは四六時中咲いておるような心の状態を願わせて頂いてのおかげでなからなければならんのでございます。ね。
例えて申しますと、普通で言うなら、喜びは、喜びではない反対の困った事とか難儀な事とか、腹の立つ事、ちょいちょいありますよね。ね、心の中に、いわばムカムカするような事がありますよ。そのムカムカしたり、腹の立とうとするような問題やら。ね、ちょっとした問題やらがね、起きて来た時こそがです、喜びのつぼみが出けた時なんです。それが、喜びの元になるのです。
今日もある方達が親子五人で夕方参ってまいりまして、ある大変、いわゆる難儀な問題を抱えて。もう、今度の問題で、一家中が、親戚中の者がおかげで信心になりましたと。今日は、もう親子の者がここで涙を流してから、その事を申しておりました。して見ると、難はみかげて良う言うちゃるねて。なるほど信心しておって、変わって事が起きて来たら、有り難いと心得て信心せよという事が分かるねと言うて、話した事でした。
もし、これが信心が薄い時ならです、もう信心しよって、どうしてこんな事が起こるだろうかというような事態に立ち至ってるんです。けれども、おかげを頂いておりますから。ね、この事のおかげで一家中どころじゃない、親戚中の者が信心のお引き立てを頂いて有り難い。ね、なるほど、変わった事が起きて来たら、それを有り難いと心得ての信心が必要なのです。ね。難はみかげと仰せられる、その難というのがです、喜びの花の、いわばツボミにも当たるものですから、そのものを、そのツボミそのものを大事にして行くならば、いつも絶えず、ね、花は咲き続けるという事になるでしょう。
花だけを求めて、そのツボミのところを大事にしないから、喜びの花が咲かん。そして、自分でも今日はそのおじいさんが言っておられました。本当に教祖の神様が仰る通りでございますと。用心せよ、心の鬼がわが身を責めると仰せられるが。私は何十年間、その苦しみを、いわばこうして目が見えなくなって、えー、それこそ真っ暗というよりも、本当にこのめくらというのは、もう真っ暗のまた真っ暗でございますと言うてある。
その真っ暗な生活を送らなければならんのもです、私が若い時から商売をさせて頂きながらです。ね、ありとあらゆる、言うならばお粗末御無礼な事をした。呉服の行商をしておる時に、ある寸法をごまかす。綿を売ると、火に炙って、こう吹くらかしてから、よか綿でございますと言うて売った。ゴザを売る時には、三枚、二枚分ば三倍にしてから、三枚にして売ったり。
もう、ありとあらゆる事を、これが商売人の、いわば駆け引きとか、これが商売が上手だという風に思うて来た事まで言われてからの、言うなら懺悔でしたから。そういう、私が御無礼ならば、お粗末ならばです、詫びれば許してやりたいのが親心と仰せられますから、心から詫びられたら、それでいいて私が。私も酒屋をして来ましたが。それこそ、お水を、それこそ、「 」酒を売った事もあります。はっは。
「 」だけじゃ死なさらんでしょうね。それは、昔の料亭なんかに売る時はですね、もう半分な引っかかると始めから思うとりますから。また、そういう「 」百円がたずつ敷かなければ、取ってくれませんです。だから、もうそれこそ、お酒が六ならお水が四つぐらい入っとる。はっは。本当ですよ。今時そんな事はありません、もうビールビンばかりじゃけん、出けんもんそげなこつ。ね、だから私も貴方と同じような事をやっぱりして来とるけれども、そこで金光様の先生にならにゃんごたる結果になった訳ですけれども。
ね、そういうめぐりが大きかったからこそ、また、お詫びの信心も人並み以上の信心も、また修行も、また出けた。だから、その事ならば、お爺さん、心配はいりませんよ。もう、今日は芯からお詫びをさせて頂いて、その心の鬼が責めるという、その事は今日は置いて。一つ、「もも?」、目は見えませんけれども、鼻で匂う事は出来る、口で味わう事は出来る。聞いて楽しむ事も出来れば、さすってもろうて喜ぶ事も出ける。ね。
ね、そういう様々な、まあだ幸せが残っておるのですから、その事を「よし?」今度は、お詫びから喜びの信心に変わらせて頂いて。そして、いよいよ心の喜び。もう、だから今日、なかなか長年信心しておられますから、お届けの内容でもなかなか、そのね、まあだ78になるけれども、生きておる限りはお役に立ちたいという訳なんです。もう一偏、お役に立ちたいという訳です。だから、お役に立つ事は、目が見えなくても立てるて。言うなら、御祈念係をはじめなさい。
自分の心の中に喜びを感じ、その喜びの心を持って、そしてここでの大祓い信行の話やらを致しました。そして、店のためやら、自分の知っておる限りの人達の事やら、その幸せを願わせてもらうというような御用が出来るじゃないですか。そういうおかげを頂きなさいと言うた事でした。ね。何十年信心しておってもです、いわゆる、安心を目指す、喜びを目指すのでじゃなくて、おかげを目指すという信心は、もう70、80にまでなって、やはりお役に立ちたいとか、御用に立ちたいとかという気持ちはあるけれども。
それは、神様にです、いかにもお役に立ちたいと言えばです、神様はおかげを下さるような思い込みをしておる間違った考え方です。これは、多くの金光教の信者がそう言いますけれども。手が汚れておって、顔がすすけとって、そしてお神様の「お粥?」をさせて下さいち言うたっちゃ、神様の方がおかゆを頼みなさるはずがなか。もう、あげなヤツが御飯をついで来るなら味のなかて思いよりなさるじゃろうて。ね、やっぱり、きれいに化粧をしたり、ね、手足でもきれいに、きれいな着物を着てから、もう一杯いかがですかち言うと、食ぶるごとなかったっちゃ、なら、ま一杯くれち言おうごたる。そんなもんですよ。
だから、お役に立ちたい、本当に神様に喜んで頂くような御用がしたいと言うならば、先ず魂を清める事からしなければいけない。そすと、神様が、ね、神様が使うて下さる。今日ある方から電話が掛かって来た。ある方から、その三千万円の保証に立ってくれと、こう言うのです。もう、その方は一時が万事に、御神意を頂いてからなさいますから。ちょっと待って下さい、私はもう、とにかく金光様任せだから。親先生にお伺いをして、親先生が良いと仰りゃ。
ところが、あん、だいたい言うたら止めときなさいち、そんな、別にその人に恩義がある訳でもなからなければ、その、これから、またお世話にならんといったような方でもないのですから、断っても良いのですけれども。神様はすぐ、それは向こうの「もとり?」に応じられて良かろうというお知らせであった。そんならば、あの、安心して版を押させて頂こうという事でございました。神様はどういう訳に、そういうような事に、しかも、まあ、いくら金の値打ちがないと言うても、やっぱ三千万ですからね。
もしその人が、払いが出けなきゃ、自分が払わなきゃならんのですから。ね、これは、私も責任問題ですから。もう、神様はいかんち仰る方が、よっぽどこっちも楽なんですけれども、応じて良かろうという事であった。で、その事を神様にお願いをさせてもらいよりましたら、ちょうどお正月のあの、お鏡さんに「だいだい?」を乗せますね。お鏡さんにだいだいを乗せる。そのだいだいが、この真ん中に乗ったのが、ちょっと「 」乗っとるけん、ちょっと動かしたら、コロッと落ちそうな感じ。
お母さんはなかなかの信心が出けますけれども、肝心要の長男は、せんじゃないけれども、なら金光様のおかげとか、金光様に参ってお願いをするという事は、まだ知らないのです。お母さんが何と言や、合楽にお願いをして、大変そげな風な問題でも、例えば版を押したりする。今までかつてそれで、ならおかげを頂いて来たがです。ね、神様、私はね、そういう時でもお礼を申し上げなければならないなという事はですね、恩着せて版を押してやって何てんちゅう事っちゃなくてですね、これは、こういう御神意を頂いて神様任せの生き方をすりゃ、こういう時でも安心が出ける。
そして、こういうおかげも受けられるという事実を、子供に見せる事のために、次の信心のだいだいがです、自分の信心が本当に的確にです、子供に譲る事の為に、こういう事をして見せておけという事である。私はそれを頂いてから驚くと同時にですね、はあ、これはほんに、なら仕様んなかて押してあげましょうて何じゃなくて、もう押させて頂く事によって、私の子供が、また私の信心を本当に分かる事が出けますと言うて、お礼を言わなきゃならないような事です。そうでしょうが。例えば、ならお母さんがそうしとる時に、不安があるに違いはありません。
けれども、これがおかげを頂いた時にはです、息子がどう言うかと、なるほど金光様じゃなあ、神様じゃなあ、信心は大切なモンじゃなあと、子供が思うでしょう。このだいだい、「まん?」上に真っ直ぐに信心が次のだいだいに移って行くところのおかげ。下の、これは心持ちという事ね、餅が二つこう。その上に、そのだいだいが、こう、これだけ落ちそうに横にあるところを、真っ直ぐにするようなおかげを頂く事であるから、その事とても、それはしてあげましたじゃなくて、させて頂くことによって、こういう子供に対する信心の継承までが出けるほどしのおかげであるという事が分かります。
子供の信心が、いわば後を継いでくれないとか、継承してくれないとかというのは、そういう信心の度胸がないから。その、まだ親の信心を見ておるから、信心は大した事じゃないという事になるのです。どういう事が起こっても、親がそこで慌てない。大丈夫よ、合楽にお願いしとるから心配しなさんなと言うてやれれるだけの信心を頂かなければならない。そういう信心が、内容として育って行く事がです、いつも山茶花の花が、言うならば咲き続ける。そこには、咲いた花だけではない、中開もあればつぼみもある。
その、つぼみそのものを大事にせよ。そのつぼみを粗末にするから、花が咲いたり、咲かじゃったりという事になるんだという事でございます。信心しておかげを受けるという事は、これは「霊肉?」共に、御霊様だけが安心の御霊、喜びの御霊を願われるのじゃない。私どももやはり、ね、喜びの生活と、言うならば安心の日々が「 」過ごさせて頂けれるようなおかげを願わせて頂いての信心にならなければならんという事でございます。どうぞ。
末永信太郎 ( 9月21日 )